【清蓮日和】Surrender
友達ふたりが、理不尽な言葉の暴力に遭っていたことがあります。
彼女達はとても優秀です。
さまざまなスキル、資格、専門知識はもちろんのこと、
性格もとても優しく、相手を尊重できる深さと知恵を持った人達。
彼女達はやりたいことを黙々としてきた、勇氣ある人達です。
やりたいことをしてこなかった人達、あるいはやりたいことが見つけられなかった人達は、
そんな勇氣ある人達の前では無力です。
だから家柄とか、出身地とか、自分ではどうにもならないことを持ち出したりして、
あるいはいちいちくだらない嫌味をねちねち言ったりして
なんとか優位に立とうとする人がいました。
文章にするのもおぞましいくらいのことを平気で言うのだそうですよ。
でもどうしてそこまでするのかなって思うのです。
勇氣ある人達の前に立つと、自分のアイデンティティの危機だと直感でわかるからですね。
自分に嘘をついて生きてきたということが剥き出しになるのが怖いのです。
勿論それが自覚できればまだマシなのですが、自覚さえ拒みます。
人の最大の敵は《恐れ》なのだと言います。
認める、つまり真実に自分を明渡すことを、
スピリチュアルな世界では《surrender/サレンダー》と言います。
サレンダーは、幸せへの第一歩。門です。
門があなたに何かしますか?
何もしません。ただあるだけ。
でも恐れがあるために、簡単にそこをくぐることができません。
上から虫が落ちてきたらいやだな、突然崩れて下敷きになったら苦しい、
門の下に落とし穴があるかもしれないし、
門をくぐったらあちらにいるのは鬼かもしれない
そもそも門をくぐる資格が自分にあるだろうか・・・・・・・
恐怖は考え出すと、どこまでも膨らむものですよね。
こんなことを偉そうに書いているわたくしだって、
やっぱり何か失うものがあるような氣がして、その門をくぐるときには、足がすくみます。
あ、キリスト教の方ならよくご存知かもしれませんが、
聖書に「選ばれし者が門をくぐる」とかなんとか、そういう言葉があるんですよね?
これは誤訳だと言う人がいます。
「選ばれし者」ではなく、「選びし者」なのだと。
神様が選ぶのではなく、自分で選ぶのだというのです。
信じてもらわなくても全く構いませんが、
私は自分を選んでくれる神様より、自分で選ばせてくれる自由を与えてくれる神様のほうを信用します。
そのほうが自分を信じてくれているんだと思うからです。
自分でくぐることを選びたい。
自分が何もないと心の底で思っている人は、自覚のあるなしに拘わらず、
見えるものを誇示して相手より優位に立つことに専念するので、
言葉の暴力などがあるのですね(時に力の暴力も・・・)。
優位に立てば、自分の弱いところが剥き出しにならないと思い込んでいるので、そんなことをします。
そうやって門をくぐらないで、いつまでもそこにとどまっていますと、
そのうち腐ってきます。
そもそもそんな外からの言葉に力を与えるのは、受け手なのです。
だから、反応しないのが一番良いのですが、十分に力があると傍から見て思える人でも、
自分に自信がなく、つい激しく反応してしまうのですね。
疲れる相手に、自分を消耗してまで付き合うことはないのです。
でも、「自分の人生に不要な役者はいない」という言葉を、私は忘れずにいます。
彼等は、何の役に立ってるんでしょう。
本当の自分を思い出すきっかけになるのかもしれません。
ジムのマシンみたいに強くなるために鍛える役なのかもしれません。
もし自分を思い出して、「自分を信じる」力が身についていたなら、
笑って軽やかに接することができます。
憎惡に憎惡で対抗しても、低レベルのギャグです。
憎惡に負けたくないなら微笑みと無視、
憎惡に勝ちたいなら、愛と誠意があなたの使う武器。
本当は勝たなくてもいいんですけれども(^-^)
私に出来ることは、私の大事な友達に
私が彼女達の存在に感謝していることをアピールすることと、
過剰なバランス取りを笑い飛ばして、もっと別のことを一緒に楽しむことくらいでした。
彼女達よりカッカしてるなんて最惡ですからね(でもカッカしてた。わはは)。
結局、一人は身体を壊し、その会社を辞めました。
もう一人は、笑ってその会社を去りました。
それもまた、彼女たちが自分で選んだことです。
私は彼女達を尊敬しています。
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